サメのアウマクア(鮫の守護神)

Updated: Jul 11, 2018



第2章 海神の溶岩洞


01・サメのアウマクア(鮫の守護神)


 夜の海の中はとても静かで穏やかだった。さほど沖まで出てないので海中の風景は深いネイビーブルー。あたり一帯の空間はとても澄み渡り、海面から差し込む満月に近い月の光が揺れながら微かに煌めきつづける。


 マノー(鮫)たちは出かけているらしく、どこにも見当たらない。


 サメは夜行性なので、夜になると餌を探して泳いで廻る。サメは頭がよく、むやみやたらに知らないもの、見かけないものを襲ったりしない。


 海の中にいると彼の側から離れないサメのアウマクア(守護神)も見なかった。いつもならこの周辺でもチラホラと見かけるのだけど、今晩はいつもと少し様子が違った感じがした。


 何か静かすぎる感じがした。


 ニウヒは鮫の子孫なので彼らを恐れる必要はなかった。


 古代ハワイアンのスピリチュアルな世界には理解を超えた驚くべきものが多々ある。彼らの精神世界の中でもサメやその他の生き物たちが一族の祖先だというアウマクアの世界観はとても解りにくいかもしれない。


 古代ハワイアンの世界の中には数多くのアウマクアたちが登場する。


 アウマクアというのは一族の守護神のことを指し、先祖のスピリットの総称にあたる。アウマクア(先祖)信仰にも様々なものがあり、人間の祖先だけでなく、動物や鳥、海洋生物、爬虫類、植物などもその中に含まれている。


 簡単に説明すると、古代のハワイアンたちは自然の中に存在するすべてのものを自分たちの祖先だと捉えていた。


 アウマクア世界の基本的な考え方は、人間は死んでも死なず、肉体は朽ちても魂は永遠不滅の存在。他界した際の状況によって人間に生まれ変わるのではなく別の生命体に宿り、残した家族の側にいて一族たちを守り続けるというものだ。


 どのような類いのアウマクアが一族を守っているのかは、その家系がどのような生き物と縁が深いかによってかなり違う。


 ある一族はカマプアア(野ブタ)をアウマクアにもち、ある一族はプエオ(フクロウ)、モオ(大トカゲ)またはゲッコ(トカゲ)だったりする。場合によっては一種類だけではなく、複数の違ったアウマクア達が家系の中に織り込まれている。人間がその他の家系と結びつき、その家系図が複雑になっていくように、アウマクア世界の構造も多角的になりえる。


 鮫をアウマクアにする一族は少ない。


 ニウヒは小さな頃からサメを怖がることはなかった。彼の家系は代々から海洋生物に縁がある一族で、祖母はニウヒが幼い頃から鮫に親しませ、鮫が身近な存在で、家族の一員であるように育てた。幼少の頃から鮫の習性を教え、関わり方を学ばせ、どのように鮫の面倒をみるのか教えこんだ。


 サメの神様で最も名の知れているのが火山の女神ペレの兄弟だろう。


 彼女と一緒に海を渡ってやって来たサメの男性神カモホアリイは竜王の名も持っている。サメの姿に変容することができるカモホアリイは、ペレと彼女の一族を乗せた神の渡航船ホヌアイアケアを南太平洋からハワイイ諸島まで導いた。


 後に海とサメの男神はたびたび人間の女性と結びを持ち、魔法の力を持つサメと人間のクプア(半神)たちが生まれる。そしてニウヒの一族は、カモホアリイに遡るクプアの血統を継ぐ家系の末裔になる。


 ニウヒは自分の祖父が亡くなった時のことをいまでも明確に覚えている。


 ばあやが床に横になっている祖父の横に座り、耳元に顔を寄せてとても小さな声で何かを言った。それはあまりにも微かだったので彼には何も聞こえなかった。


 祖母は一緒に長く連れ添い、すぐさま向こう側に旅立とうとしている生涯の連れ添いに、心配することなく安心してお逝きなさいと言ったのだと思った。ニウヒの両親と兄弟姉妹たちが祖父母を取り囲むようにして静かに見守っている。


 家族の一員を見送るというのは代々に伝わり続ける神聖な儀式の中でも極めて重要なものだ。


 死というのは、肉体は朽ちても魂が死んで消えるわけではなく、スピリットが別の世界へ移行するだけのことだと誰しもが小さな頃から理解していた。その世界観は生まれた時から生活の中で自然に養われ、死後の世界を信じる、または信じたいという心情を超え、揺るぐことのない真実になる。


 物理的な肉体の死という行程は単なる通過儀礼なだけで、その後に一族のアウマクアとして家族の生活の中に生き続け、交流は続く。


 例えば家族の一員が何かの理由で告別の儀式に面することができない場合、旅立つ死者の魂は、その家族の目の前に現れたり、夢枕に立ったりする。そしてサメのアウマクアは漁を助けたり、海で遭難した漁師を導いたり、溺れかけた子孫を押して岸際まで連れて戻したりする。


 祖母が左手を祖父の頭の下に差し込むと、右手の親指で祖父の左足の親指の付け根を押すように握った。すると祖父のマナが身体から離れ始めるのが視えた。


 それは薄霧の微かな揺らぎのようなものに近く、肉体から分離して浮き上がるとなんとなく人型になった。自分を取り囲んでいる家族の周りをゆっくりと徘徊した後に家から出て海の方へ移動した。夜の帳はすでに落ちていて、新月から数日経ったとても細い三日月が銀色に輝く元でたおやかに揺れる海の中に消えていった。


 ニウヒは海辺に立ちすくんで成り行きを見続けたが、それから何か格別なことが起きるわけでもなく、しばらく目の前の光景を眺め、祖父のスピリットの姿の行方を思案しながら家族の元に戻っていった。


 アウマクアの世界へ他界した祖父が再び家族の生活の中に現れたのは七日後の夜だった。


 ニウヒが半月が輝く中で海の番をしていると、波打ち際に一匹のサメが頭を出し、押し寄せる波に乗りながら少しずつ岸へと上がってきた。水に濡れて輝く胴体を左右に動かして彼の方へ動いてきた。そのサメの姿はどことなく旅立った祖父の印象を抱え、背びれの一部に明確な傷跡があった。それは祖父の背中にあった長い切り傷の後を思い出させた。


 アウマクアとしてキノラウ(化身)の姿に変容する際には、一族にわかるように生前の時に持っていた何かの印を持って生まれ変わる。


 ニウヒは祖父がサメに化身したことを知らせに来たことを嬉しく思い、その場に屈んで足元にうずくまっているサメの頭を撫でてやった。それから後ろを向いて大声で祖母の名前を呼んで知らせてあげた。


 ばあやは椰子の実の殻に入ったアヴァ(アヴァという植物の根を摩り下ろした飲み物)とカパ(樹皮を叩いて伸ばした布)を先に巻いた棍棒を持って出てくると、サメに変容した祖父が広げる口の中にアヴァを浸した棍棒を差し込んで飲ませた。


 サメは十分にアヴァを飲み干すと祖母に連れられて波打ち際に向かって戻りはじめた。祖母はサメの祖父と一緒に胸元まで海の中に入ると化身になったサメの頭を抱えてその鼻先を自分の額に当てがってしばらく黙っていた。それからサメはゆっくりと体を反転させて波に反するように尾びれを動かして泳ぎ始め、そして消えていった。


 ニウヒが年毎に育って成長し、さらに頻繁に海の中を潜って生活するようになると、背びれに傷を持ったサメがいつも彼の側を見張るようにして回遊するのが常になった。


 それ以来ニウヒは海の中で極端な危険にあったことはない。

 ニウヒはゆっくりと上に浮き上がっていき海面に顔を出して息を吸った。そして周囲を見渡す。潮に流されてはいない。マウナケア(白い山)は後ろにあり、プウコホラ(鯨の丘)の岸辺は左にあった。


 すると突然のようにオーマオマオ(エメラルドグリーン)の彗星(ホークー・ヴェロヴェロ)のような何かが目に前に現れた。


 まるで突然のように視界の中に入って来たので少し驚いた。


 それは北の海のどこかから飛んできたように見え、かなり速いスピードで海上を南東へ向かって海上近くの空を走り、ケアラケクアの方角へ進みながら小さくなって消えた。


 その不思議な彗星のような何かの大きさを自分からの距離感で測るのは難しかった。なにせ海の上なので、比較できる何か、大きな石とか、椰子の木の頭の茂みとか、白い山(マウナケア)や偉大な山(マウナロア)もないから。大きさや距離を比べることができないので、自分が目にしたものの大きさが実際にどれくらいのもので、どれだけ遠いまたは近かったのか検討がつかなかった。


 それは夜の星空の広がりの中に時どき現れるいつもの流れ星と同じでないことだけが確かだった。さっき目の前を駆け抜けていったものは、とても低空で手を伸ばせば届くのではないかと錯覚させるくらい近距離だった。瞬間的に夜空に消える流れ星ではなく、まるで轟々とき渡る消音が聞こえる感じもした。実際に耳から音が入ってくるのではなく、頭の中で音が作られる感じだった。


 彼は穏やかに揺れる波間と一緒に漂いながら発光する奇妙な長い星の尻尾が次第に小さくなって消えていくのを見つめ続けた。


 彼は前にも同じような光景を何度も目にしたことがある。


 最初の目撃の時も同じように海の上を走り、もっと大きく見えた。その彗星のように発光する長い尾は赤い輝きだった。


 二回目は同じ年の数ヶ月のちの夕暮れ時で彼は岸に立っていた。前よりも少しだけ遠い感じがし、色はオレンジっぽくて少し速く消えていった。


 三回目は遅い夜で、外の空気を吸いに出るなりに岸辺のキアヴェ樹の高い茂みの上を通って北のマウナケアの方向へ素早く消え去った。


 祖母にこれらの話をしたら、きっと神様の伝言じゃろうと言われた。そんな風に言われてもなんとなく分かったような、でも分からないままで彼の頭の中では全く答えになりはしない。


 しばらくそのこと考えたけれど、その内に何か別のことに気がとられ、いつのまにか自然に忘れてしまう。時々のように思い出すことはあっても、意味不明なのは同じなので、考えても分からないから、きっとわかる時が来るまで分からないものだと思っていつもの生活の中に戻るのが常だ。


 ニウヒは再び海の中に少しだけ体を落として潜り、祖父の姿を探したけれど見つけられなかった。


 何かがいつもと違った感じがしてやまない。


 海の上も、海の中も。何かが微妙に異質な感じ。


 目で見える光景は同じでも。そこから受け取る何かが違い始めている感じ。


 彼は海面へ浮き上がり、大きなストロークで岸辺に向かって泳ぎ始めた。



海に続く溶岩洞


 彼が海から上がって集落に戻り始めると、祖母がまだ幼い弟のケオラを抱えて杖を突きながら母屋から出てきたのを見つけた。


「ばあちゃん、またすっごく大きなホークー・ヴェロヴェロ(彗星)を見たよ。オーマオマオ(エメラルドグリーン)の彗星。」


「確かこれで四回目かね? 不思議なことは沢山あるからね。お前は昔から不思議な何かを視ることが多いからのぉ。」


 不思議な出来事にさほど驚きもしないばあやは、ニウヒが見たものは何か神さまのお知らせなのかもしれないねと言う。


 昔の人たちは自分たちの理解をはるかに超えた超自然な趣きの事柄を神様、人間を超えた者、人間を超えた何かに直結させて考えるのが常だ。


 特にばあやは全てを神ごとに結びつける。あたかも全ての現象が神さまからの伝言であるかのように。


 ばあやが抱いていた孫のケオラを彼に渡すと、ニウヒはまだ幼い弟を両腕で抱え上げ、肩車にして載せた。それはケオラが肩車されるのが好きなのを知っているから。ケオラは小さいので下から大人たちを眺めあげるよりも、大人の胸の位置なり頭の高さから見る方が気持ち良いからだろうと思う。


 ばあやは母屋の中に戻ってククイの実を刺し連ねたロウソクを幾つか持って出てくるなり、一緒について来るようにと彼に言った。


 ケオラは不思議な子供だ。少なくともその他の同じ年頃の子供達とはかなり違っている。小さな弟はその他の同じような歳の子供たちに比べると限りなく言葉を話さない。


 普通の子供たちは小鳥がさえずるようにいつも自由に何かを話しているのが普通だ。極端に口数の少ない弟は言葉をまったく話さないわけではなく、ただ話さないように見える。


 小さな頃から言葉が少ないから、話しかけても聞いているのかどうか怪しく思ったことも多かった。正直なところケオニの頭の中は何かの部品が足りないのではないかと思ったこともあった。


 ばあやに押し付けられて頻繁にケオラの子守をするようになって気づいたのは、聞いてないわけではなく、むしろ言ったことをより理解しているのだということ。わざわざ言葉にして話さなくても、まるで事前に自分の言いたいことがわかっているような行動をすることが多い。


 ニウヒが、どこに行くのさ? とばあやに聴くと、アウマクア様にお伺いに行くんだよとアッサリと言ってきた。


「海の洞窟のアウマクア?」


「前に何度もお前を連れて行ったことがあるだろ?」


「あんまり好きな場所じゃなかった気がする。」


 あの場所が好きな者は多くない。それは怖いというよりも居心地わるく感じるからだ。


 生身を超えた世界に親しみがあければ怖い場所でもなんでもない。


 日常とかけ離れている異質な趣きの世界。そこは誰しもが毎日のように行く場所ではなく、特定の人々、主に長老たちの世界だから。


「それはお前が好きな感じがしなかったんじゃなくて、アウマクアたちがそう思ったんじゃろ。あれらは人見知りするからのぉ。お前もっと頻繁にお参りに行ってよく顔を覚えてもらいな。じいやのサメの化身だけがアウマクアじゃないのは知ってるだろう。あの子たちを可愛がってあげれば、いろんなことを助けてくれるよ。」


 彼らが向かっているのは灼熱の溶岩流が大地を溶かして海まで流れ続けて造った地下を這う黒い洞窟。


 先祖代々に渡り守り続けられてきた聖域の内には普通とは遥かに違った世界がある。明るく輝く昼間の世界とは異なった影の世界のような何か。もっと濃く感じられる何かがあり、目では見えないけれど生きている何かがある。生と死の境界線の現れがそこにある。


 ニウヒの中には怖いという感情がほぼない。その傾向は彼だけでなく、その他の島の人々も同じように何かを恐れる、怖がるという習慣があまりなかった。


 まだ南太平洋のポリネシアの島々から大量の移民が渡航してくる前のハワイの島々には、人がその他の人間を恐るという世界がなかった。


 人間より巨大な野生の動物も存在せず、病原菌も存在しない。亜熱帯の気候の中で育まれた大自然の中には、人々が豊かに暮らせる恵みが溢れていた。生き続けるために何かを奪い合うという世界はなかったのだ。


 生きるためにその他の人間と競ったり、戦ったりし続ける必要はなかった。


 生き続けるための全てがそこにあったから、人々は穏やかに、調和的に生活し、全てと協調して生きていた。


 海、山、川、雨、風、熱、地熱。


 彼らを取り囲む完璧に近いエコシステムの中で最も威厳を持っていたのは人間ではなく、自然の力そのものだった。


 彼らの目からみると、自然そのもの、森羅万象のすべてが神の姿だった。


 ハリケーンや地震、津波、火山の噴火などは人間の存在の位置をとても小さくさせる。それら自然の破壊的な力でさえ、全てがひっくり返って消えてしまうレベルのものではなく、それらにも自然のリズムがあり、季節と関係しながら定期的に繰り返されるものだとわかってしまうと、意味なく怖いものではなくなる。


 そこにカイマナ(人間)を超えたアクア(神)のマナ(理力)をみてしまうと、わかってしまうと、そこには魅惑しか残らない。


 自然という神様の世界の中のすべてが恵みに満ちているのだから、そこに不平不満というものは存在しえなかった。


 山には緑が育む恵みがあり、海には別の恵みがある。雨が降るのも恵みで、それがあれば植物が育だち収穫が実る。


 人々は自然と一体化した生活の中で、自然の仕組みをよく理解していた。そして自分たちが自然そのものの一部であるとわかっていた。


 自然は自然のすることをするから、人間は自然の中で自然のためにすることをして生活すればよかった。


 とてもシンプルな生活の中にはストレスはあまりなかった。


 人々は繋がって共同体として生きていたので、そこに不調和は少なかった。仮に人々の中に何かの不調和が生まれたとしても、彼らにはそれを解決する精神性の知恵があった。


 物事を理想的なバランスに戻すホオポノポノ。


 彼らにとって調和は何よりも大切なものだった。住んでいる区域が違っても、それぞれが調和に満たされていたので、部族や集落の間で喧噪が起きるようなことはなかった。どこに住んでいても誰しもが親戚のような世界だから。


 家族は分断されてなく、それぞれのコミュニティーが巨大な家族という位置にあった。コミュニティーで生活し、コミュニティーで家事や育児をしていた。子供たちは全員の子供として扱われ、自分一人でなにかの面倒をみるという世界はない。男と女という区別の意識も薄く、人は人として扱われた。


 人間という形には男と女という姿しかないけれど、その中身はそれぞれ違う。


 性別というのは外見(そとみ)のことで単なる一時的な殻に過ぎない。それより大切なのは中味であり、人間という殻の中に入っている魂が成熟しているか、未熟な状態か、満たされているか、そうでないか、魂の性質が、女性的か、男性的か、それとも両性的かで関わり方に多少の違いを生んでいただけだ。


 そこに上下はなかった。満たされている魂の中に歪みはなく、上下感や優越感、孤独感など存在しえない。


 生活の全てはゆっくりで、時間はゆっくりと流れていた。何かに急ぐことなど怪我や病気くらいしかない。暮らしそのものが自然と密接な結びつきの中で回っていて、子供たちは小さい頃から自然を知って育てられる。


 特に大地の上に怖いものはあまりなかった。海の中にはサメなどの凶暴な生き物がいるけれど、それらでさえ無闇矢鱈に人間を襲うわけではない。自然のサイクルが何かの理由で乱れなければ、サメ達でさえ海のサイクルのなかで調和的に暮らしていた。


 彼らの中に恐怖というものがなかったのは、死というものを全く別の観点で理解していたからだ。


 死に対する観念が違うのだから、死でさえ恐る必要はなかった。


 死んでも死なない、死んでも存在として消えない世界に住み、それが日々の生活の中に溶け込んで一緒に生活していれば、死は肉体的なもので単なる通過地点でしかなくなる。


 死者の魂は消えず、いつも身近に居るのだから、それを恐ることなどありはしない。


 そんな暮らしの中で育まれ続けたのが彼らの精神性で、彼らは自然そのものと話すことができた。


 自然の中に息づいている見えない世界と交流することができた。


 それも怖いという概念がないから、全てが生きて輝いていたから、自然の中が神秘の輝きで満たされていたから。


 海の中の生き物や、緑の中の植物や小動物、昆虫や爬虫類など、自然と繋がっている全てと会話することができれば、そこには調和しかなく、そこに恐怖など存在しえない。人間と自然、その中に生きる動植物との差はないのだから、その中にいれば大きな問題はおきはしない。


 今の人々の心の中に竦んでいる怖いという感情はいったい何なのだろう?


 いったい何がそれを生み出し、怖がらせるのだろう?


 自然から極端に離れてしまった人間は死を恐れるようになる。


 自分が消えてなくなってしまうのではないかと思い始める。


 いま生きている世界そのもの、いま自分が一緒にいる人たちや、懸命に築いてきたもの、携えている物が全て虚無の中に消えてなくなり、自分もそれと同じように無に帰化してしまうのではないかと恐れている。


 自然との繋がりが失われると、自分が失われることが怖くなる。


 そして現代の人たちは目に見えない別の世界のことも恐れている。


 生身の世界にない別の世界、異なった次元。


 解りかねない別の現実というものに対して興味や魅惑を感じる代わりに、それらを知ることを、認めることを恐れている。


 そもそも恐れなくてもいいものを、怖いと思わなくてもよい世界を、ただ自分の理解の範囲を超えているというだけの理由でその神秘の世界から遠ざかろうとする。


 昔の世界は生と死がもっと身近にあった。というよりも、生と死は同じ場所にあった。


 人間と自然の間の絆が薄くなるにつれて生と死の間が長くなり、生が長くなるに従って生を失うことが怖くなる。


 そして人々は自然を忘れ、自身が自然の一部であることを、すべての一部であることを、自分が神という何かの一部であることを忘れ、命の神聖さから遠ざかり、忘れ続け、そして死を恐れるようになった。


 ばあやとケオニを首の後ろに乗せたニウヒは微かな月明かりの元で海辺のキアヴェ樹の雑木林の中を歩いて南の方へ向かって進み、黒い海岸線の先にある溶岩流が造った崖っぷちの麓にたどり着いた。

© 2015 by Hiroshi Makaula Nakae

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