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海神の斎場

第2章 海神の溶岩洞


02・海神の斎場


 ハワイ島の至る所に漆黒の大地は広がり、その地下には無数の溶岩洞が走っている。それは大昔にコナの山岸にあるフアラライ火山が噴火して流し出した溶岩流が斜面を走り、あたり一面の大地を溶かし尽くして創り上げた神の世界の一部。


 ある洞窟は黒い大地の荒野の中にぽっかりと空いた大きな空間を創り、ある溶岩洞は途中で潰れ、あるものは海まで続き、海の中に続くものや、崖の途中から海に出るもの、海岸線に近く半ばまで海が引き込まれているものもある。


 ばあやがニウヒとケオラを連れて行こうとしている洞窟の先は先祖代々に渡って守られ続けている海の聖域の一つだ。溶岩洞の先は海に続いていて、先の出口は外からは隠れたようになっているので海からでないと入江は見えない。


 そして洞窟内の入江の側には溶岩の縦長い石が幾つも立ち並んでいる。ニウヒが初めてその場所に連れて行かれたとき、目には見えないけれど、なぜか沢山の微かな囁きが聞こえるような気がしたのをよく覚えている。


 見えない家族の子供たちが寂しがらないように面倒を見に行くんじゃとばあやは言った。海際に並んで立っている石の像は、先祖代々で祀ってきた子供たちの魂を宿していると。その伝統がどれだけ古い時代まで遡るのかは誰も知らないらしい。


 ばあや曰く、家族の中の幼児が原因不明の病気になるとこの聖域に連れて行き、神様とご先祖様のお力で治してくれるようにお頼みするのだと言う。


 一晩で病が引くこともあれば、そのまま息を引き取ることもある。幼児が神様に召された場合は、その場に立ち並んでいる石地蔵になるように、すぐさま赤子の遺体を埋めて、その上に石の地蔵を立てるのだそうだ。


 そうすることで肉体から離れた赤子の魂が地蔵と繋がり、一族を守るアウマクアの一員になるのだという。その後は長老たちが見えない子供たちの面倒をし、話を聞かせて育て続けるのだと。


 ばあやは周辺から枯れ草を集めて小山にし、石を叩いて火を燃し、ククイの実が連なるロウソクに火を移して溶岩洞の中へ歩いていく。ニウヒは肩車にしていたケオラを肩から降ろしてお尻を左腕の上に乗せて抱え直してばあやの後をついて行った。


 湿って薄暗い黒い岩壁の中をククイの実の松明の明るさと一緒に注意深く歩き進んでいってしばらくすると、別の洞窟が交わり、右手から外の光が入り込み、ほんの少しだけ明るくなりはじめた。


 ばあやは杖をつきながらロウソクを掲げて何事も気にすることもないように気楽な感じで先を歩いている。ケオラが自分の頭の上に顎を乗せ、時々あくびをするように口を大きく縦に広げて周囲を見渡す。


 生命を意味する名前を授かったケオラを連れているからなのか、自分も子供時代を通り越して大人世界の住人になったからなのか、今は自分がとても幼かった頃のような得体の知れない怖さは感じなかった。


 岩壁が黒光りする光景は以前の時の記憶よりも神秘的に思えた。それに体感的にも遥かに違った感覚がする。


 自分の身体の中の密度が微かに、とてもゆっくりと少しづつ圧縮されるような感じ。いつもは感じることがない体の奥行き、もっと奥の体感がわかるような感じがした。


 目で見ている光景も、いつもより微細な領域を詳細に捉えているようだった。より遥かに立体的な感じで見ている気がした。歩きながら場所によっては岩壁から微かな光の層が見え隠れするのがわかった。ある場所は光が濃く、そこを通った時は微かな圧を感じた。そんな中でばあやがニウヒに向かって言った。


「お前は幾つになった? 22歳だったかいな?」


「違うよ、もう23歳だ。」


 それを聞いたばあやは、もうそんなに歳をとったかいな。もう立派な大人の仲間入りじゃわなと微かな笑みを浮かべた。


「お前が生まれてからもうそんなに時が経ったいな・・・。もっと早くこの時期が来るんじゃないかと思っていたけど、まぁそんなもんかも知れない。お前いままで海の中でモオを見たことあるか? モオカイホノヌ・深い海に棲むモオを見たことあるか?」


「モオっていうのは真水を守る精霊で、海の中にもいるって聞かされたことはあるけど、まだ見たことないよ。どうして?」


「随分と待ったけれど、ようやく時が熟したのかも知れん・・・。


 モオは遠いとおい遥かな昔に、先祖の故郷カヒキラニからやって来たんだそうだ。まぁ水を守る神様のようなもんじゃ。モオさまの一族は雨が多くて渓流が走る渓谷には多いが、乾燥した海側にはあまり棲んでいない。


 海の中に棲んでいるのは陸地のものとは遥かに違うもので、その数も極めて少ないという。その昔に火山の女神ペレさまの一行がカヒキラニからこの島にやって来た時に、ペレさまの姉のナマカオカハイがここに連れてきた。


 モオはトカゲに近い姿だけれど、モオカイは違った姿をしている。


 それに滅多なことでは人前に姿を現わすことはないからね。ばあやもこの長い人生の中で一回しか見たことない。先だったじいは一回も見たことなかった。あれはばあやが今のケオニと同じような歳の頃に、ばあやのばあやに連れられて海の洞窟に行った時じゃった。


 ばあやのばあやは不思議なことを言ったよ。海神(うみがみ)さまがお前のことを気に入ってくれるとよいんじゃけど・・・と言ったよ。今から思えば、きっとばあやのばあやも先代からの言い伝えとして聞かされたことがあったくらいのことだったんじゃろう。


 あの時に見たと言っても、見えたような、見えなかったような感じだった。入江の海の水の中に揺らいで見える何かの生き物、マノー(サメ)ともナイア(イルカ)ともコホラ(鯨)の子供でもない生き物を垣間見ただけじゃった。海蛇のようにも見えたけれど、お姿の全部を見たわけじゃなかったよ。


 今でもはっきり覚えているのは、海神さまの片目の輝きだけ。なにぶん水の中に隠れていたから片方の目しか見えなかったのさ。


 その目の色は金色だった。人間の目の真ん中には黒くて丸い部分があるだろ? 光の強さによって大きくなったり小さくなったりする部分。海神さまの目はその部分が丸くなくて、縦細かった。色と大きさは違ったけど小さいモオの目と同じだった。


 あの瞳の輝きは忘れようのないもの、たったの一度きりでも忘れられないほどの輝きだったよ。


 ばあやがばあやのばあやから聞かされたのは、海神さまが現れる前には鮮やかな緑色の彗星が現れるということ。ばあやはその頃に彗星をみなかったけれど、ばあやのばあやは見たと言った。


 そして彗星の到来で姿を現わす海神さまは、伝説の子供が現れるのを首を長くして待ち続けていると聞かされた。


 それは先祖代々で受け継がれてきた言い伝えで、ばあやもそれ以上のことは知らない。自分がばあやに連れられて海神さまが現れた溶岩洞の入江に行った時のように、彗星の予言でお前たちをそこに連れていくだけじゃ。だからお前が緑色の大きな彗星を見たことを言った時に、ここに連れて来なければいけないと思った。ここに連れて来ればあの時のように海神さまが姿を現わすかもしれないと。」


「じゃぁ海神さまを見れると思うの?」


「さぁどうじゃろう。それはばあやが決められることじゃぁないからね。誰にも決められないし、誰にもわからない。ばあやのばあやも同じことを言った。仮に海神さまが姿を見せなくても、アウマクア様たちにお伺いを立てれば何か伝えてくれるかも知れんし」と微笑みをみせた。


「じいちゃんも来るかな?」


「それもどうじゃろう・・・。じいやが来てもおかしくはないが、あれがモオカイの遣いになるっちゅう感じはしないけん、別のお方が現れるんじゃないかの? 普通の者が見えないものが視えるお前だったらきっとお姿をお見せになられるかもしれん。それにケオラも一緒じゃけん、どっちか、またはお前たちに視せるなり、話すなりするかもしれん。行かなければ分からないし、行ってみれば何かわかるだろう」と気負いのない微かな声で笑った。


 海辺に近くなるにつれて溶岩洞の中が微かな月の光で明るくなっていく。洞窟のトンネルの大きさ広い空間に変わり、入江に入り込んでいる海面には光の反射が揺らぎながら待ち受けていた。


 溶岩洞の終わりの空間は広く、微かな青い光で満たされているように見えた。


 そこへ近づいていくと周囲に石地蔵の姿が並んで見え始めた。


 人間という肉体を持だずに生き続ける、見えない子供たちの魂が宿る石たち。


 その魂たちの古さがいったいどれくらいの年月になりえるのか想像もつかなかった。何十年ということではなく、きっと何百年という古さなのではないかとニウヒは思った。


 そんな人間の領域を超えている聖なる空間には以前のような見えない囁きと感覚的なざわめきはなかった。そこには人間的な怖さや恐れなど露ひとつなく、言葉で表現できない何かの神聖さ、この世のものから離れている神秘的な雰囲気に満ちているような感じがした。


 怖さや恐れという人間の感情というものは、人間にしか与えられていないものなのかもしれない。


 人間的な死を超えた領域に生きる者には別の世界観があるように感じられた。そんな異質の空間の中で穏やかな波が時折のように黒い溶岩の入江の岸に当たって微かな音を響かせる。


 とても穏やかな波の音。微かな囁きにも似た水の響き。


 ばあやは水際まで行くと周囲を見渡して、近くに立っている石地蔵の頭に手を置いて、優しく撫でるような仕草をするとしばらく黙りこくり、ウンウンと数回うなづいて言った。


「神様が来ると見えない子供たちが言うとる。」


 ばあやは他の人たちよりも視えない人たちと話せる力がある。ニウヒを含めた一族の皆も視えない人たちの言葉を拾うことがあるけれど、ばあやのように上手くはない。わかる時より分からない場合の方が断然に多い。


 それを聞いたニウヒは神様というのはどういう存在なのか不思議に思った。


 自分たちの生活の中に溶け込んでいるアウマクアたちの世界もさまざまなアクアたち(神様たち)と位置付けられることが多い。


 様々なキノラウ(化身)の姿をとって現れるアウマクア的な神様と、その他のアクア(神様)というのはどういう風に違うのだろう?


 自分とまだ幼いケオラを含めた一族が海とサメの神カモホアリイの末裔というのは知っている。そして海とサメを含めた海洋生物との暮らしの中で、自分がそれらの世界と深く繋がっているのは理解を超えたところでわかっている。


 満月の夜に海の中に泳ぎでていって、自分を取り囲んでいる壮大な海そのものが自分の故郷と思える瞬間を数え切れないほど経験した。


 限りなく透明な濃紺の海の中で呼吸を止めて待っていると、まるで自分そのものが海と同化してしまうような感じがする。


 月明かりの海に浮かんで夜空を眺めていると、仰ぎ見ている満点の星空の中に吸い込まれるような感覚にいつもなる。


 自分の意識が肉体という枠を超えて広がり、永遠に広がるモアナラニ(天海)に引き上げられる。


 水平線を隔てて上にある聡明で限りなく深くて蒼い星空と、それと同じように深く神秘的な蒼さの海の世界が境界線を超えて重なるようにして溶け合い、天界と天海が一つになる。


 海の世界と星の世界が溶け合って、そこに自分の全てがあり、そこが自分の生まれた領域で、また再びそこへと還るのだというのが理解できる。


 それらの経験は感覚を超えた領域のものだ。


 ばあややじいやな言うように、自然そのもの、森羅万象の全てが神の具現化した姿であるのなら、それそのものが神なのではないかと思う’。


 見えない子供たちは神様が来るよと言う。


 いったいどいう姿の存在が神なのだろう?


 それと彗星の現れは一体どいう繋がりがあるのだろう?


 一族の長老であるばあやですら伝説の彗星を見たことがないにも関わらず、なぜ自分は4回も見てしまっているのだろう?


 そんな感じで考えごとをしながら目の前に佇む洞窟内の海の揺れを見つめていると、何かが自分の右足に触れる感じがした。


 胸元に頭を乗せていたケオラが少し顔を動かして、自分の足元を見下ろしている。


 それはアウマクアの子供たちのひとりが触ったのだろうか? 


 するとばあやが彼に向かって、何も怖いことは起きないから安心しなさいと言った。


 すると彼の頭の中で先ほどばあやから聞いた“”神さまが来るよ”という言葉が理由もなく繰り返すように湧き上がってきた。


 神様が来るよ。


 神さまが来るよ。


 神様が来るよ。


 神さまが来るよ。


 神さまがくるよ。


 かみさまがくるよ。


 カミサマガクルヨ。


 頭の中で繰り返されるばあやの声が滅多に言葉を使わないケオラの声になり、ケオラの声が数え切れないほどの数の子供たちの声へと変わっていく。


 神様が来るよ


 神様が来るよ


 神様が来るよ


 神さまが来るよ


 神さまがくるよ


 かみさまがくるよ


 カミサマガクルヨ


 頭の中で言葉が高速で響き始め、まるで頭の中で子供たちの大合唱を聴いているような気になっていった。


 それから頭の中の言葉は一気に反響を強めて声ではなくなり、耳の中が強く振動する感じがして甲高い高音域の耳鳴りがした。


 今まで一度も聞いたことのない音。海鳥の甲高い鳴き声よりも遥かに厳しく鋭い音が永遠のように頭の中で鳴り響く。


 その響きの鋭く差し込むような強さに顔をしかめて目を閉じた。そして反響しながら一気に耳鳴りが遠ざかっていく。


 ニウヒは何度か目をしばたかせて目の前を見た。


 目の前の風景は同じでも、何かが微かに違っている感じがした。同じなのに同じではない。まるで自分が別の場所に立っているような気がした。見えている光景は同じでも、どこか違った空間に入っている感じがした。


 するとケオラが珍しく言葉を話した。


「神さまが来たよ。」


 驚きの響きのかけらもないケオラの言葉よりも、目の前で見ているものに釘付けにされた。ニウヒは無意識的に自分の目を何度か羽ばたかせ、何を見ているのか確認せざるえなかった。そして何か言葉にする前に、右脇に立って同じ位置を見続けているばあやの方を向いた。


 言葉というのもが出てこなかった。ばあやも目をパチクリさせて入江の海の上の空間を見つめている。ケオニは楽しそうな顔をして神さまの方を微笑んで見ている。


 そこに何かが来ていた。


 いままで見たことのないもの。


 いま自分の目の前に現れているものが、神さまなのか、なにかのか、彼には皆目見当もつかなかった。

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